英語ブログ?

  • 2013.04.15 Monday
  • 20:59
なんだか、英語関係のエントリが多くなってきた。
中卒中年の戯れ言にすぎんのに、その方面のアクセスが先月あたりから急増。
なんでやろ?

  The notion that every problem can be studied as such with an open and empty mind, without knowing what has already been learned about it, must condemn men to a chronic childishness. For no man, and no generation of men, is capable of inventing for itself the arts and sciences of a high civilization. No one, and no one generation, is capable of rediscovering all the truths men need, of developing sufficient knowledge by applying a mere intelligence, no matter how acute, to mere observation, no matter how accurate. The men of any generation, as a French philosopher once put it, are like dwarfs seated on the shoulders of giants.
  If we are to "see more things than the ancients and things more distant" it is "due neither to the sharpness of our sight nor the greatness of our stature" but "simply because they have lent us their own." For individuals do not have the time, the opportunity or the energy to make all the experiments and to discern all the significance that have gone into the making of the whole heritage of civilization. In developing knowledge men must collaborate with their ancestors. Otherwise they must begin, not where their ancestors arrived but where their ancestors began. If they exclude the tradition of the past from the curriculums of the schools they make it necessary for each generation to repeat the errors rather than to benefit by the success of preceding generations.

※フォント茶色は小生による

これは、25年以上前に東京大学の入試英語で使われた英文。英文の前に置かれていた日本文は「次の文を読み、その用紙を80字から100字の日本文で書け。ただし、句読点も字数に数える。」だけ。他の大学では余り見られない、東大独自の「大意要旨問題」。

この英文は、その後10年以内に早稲田の理学部でも使われた。
入試英文の素材探しが、どれだけ難しいかを垣間見ることができる。

早稲田で使われたときは一つ目の茶色の部分が
[Bernard of Chatres put it]
と、恐らくオリジナルの英文にあった人物名が使われ、二つ目の茶色の部分は使われなかった。つまり、
[Otherwise they must begin, not where their ancestors arrived but where their ancestors began. ]
で終わっていた。

以下、東大の問題に対する解答と全訳(駿台、伊藤和夫)と、早稲田の問題に対する全訳(増進会、風早寛):

---
あらゆる問題は独力で虚心に立ち向かうことで解決できるという考えは誤りである。個人も世代も単独でなしうることはきわめてかぎられている。文明の進歩は過去からの遺産に立脚してはじめて可能となる。(93字)
---

===
 どんな問題でも、それ自体を心を開き空しくして研究することが可能であり、これまでの研究の成果を知らなくてもよいとする考え方をとれば、人間はいつまでも子供の状態を脱することができないにちがいない。いかなる個人もまた世代も、単独では高度の文明の芸術や科学を作り出すことはできないからである。個人も世代も一代のうちに人間に必要なすべての真理を再発見し、十分な知識を得ることは、いかに鋭敏な知力をいかに正確な観察に向けるとしても、それだけでは不可能なのである。あるフランスの哲学者がかつて述べたごとく、いかなる世代の人間も巨人の肩に坐った小人に等しいのであって、かりに我々が古代の文明人より多くの物を見、視野が広くなっているとすれば、それは視力が鋭敏であるためでも身長が高いためでもなく、単に祖先のものを利用させてもらっているからにすぎない。
 個人に与えられる機会と精力だけでは、文明の遺産全体の創造に役立ってきたすべての実験を行い、すべての重要事を認識することはできないからである。知識を発達させてゆくときには、人間は祖先と協力しなければならないのであって、そうでないと祖先が到達した所からではなく、祖先が始めた所から始めなければならなくなる。学校の教科課程から過去の遺産を排除すれば、各世代は先行する世代の成功から利益を得るよりむしろ彼らと同じ誤りを反復せねばならぬこととなる。
===


===
 屈託のない愚かな考えで、先入観を持たず、すでにわかっていることを自分では知らなくても、いかなる問題もそれなりに研究できるものだと思っているとすれば、人間というのは永遠に子供っぽい存在のままでいなくてはなるまい。というのは、いかなる人間も、いかなる世代の人間も自分だけの力で高度な文明の芸術や科学を産み出すことはできないからである。だれ一人として、また、どの一つの世代も、人間が必要とするすべての真実を発見し直すことはできないし、いかに鋭くても単なる知性を、いかに正確であれ単なる観察に生かすだけでは十分な知識を開発することはできないのである。シャルトルのベルナールが言ったように、いかなる世代の人間も巨人の肩に坐っている小びとのようなものである。もしもわれわれが「古代人よりもより多くの物を見ることができ、また、より遠い距離にあるものを見ることができる」としても、それは「われわれの視覚が鋭いためでも、身長が大きいからでもなく」「古代人がわれわれに彼らの視覚と身長を貸してくれているだけのこと」である。
 というのは、個人はすべての実験をし、受け継いだすべての文明の形成の理由となった意味を認識する時間も機会も気力も持っていないからである。知識を発達させるには、人間は祖先と協同して行わなければならない。そうしないならば、人間はその祖先が到達したところからではなくて、祖先が始めたところから始めなくてはならないからである。
===

大学入試における「日本語に訳せ」が「英文の構造と意味を理解していることを、日本語に置き換えることによって示せ」と同意である以上、駿台の全訳もZ会の全訳も正解として差し支えない。しかし「英文を日本文として再構成する」という翻訳の段階に進んだ場合、Z会の訳文では心許ない。日本語として非常に不自然であり、英語の文構造にある程度精通している者でなければ、この日本文だけで筆者の意を汲むのは難しい。





「nisizen」さま
山椒辞書mobileの缶コーヒーカンパ、誠にありがとうございました。
缶コーヒーカンパ、久方ぶりに頂戴。
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