アベの矛盾について

  • 2017.03.11 Saturday
  • 21:44
中退とは言え、大学の四年生にまでなったので就職活動の経験がある。どこの企業を訪問しても「その分野のトップ企業、トップシェア、ガリバー」であり「ウチの会社がなければ社会が回らない」。

パッケージメーカーに運送業者、ベアリング、計測機器、製鉄……。

……、そうだろうよ。「必要とされる存在」と認識することにはある種の快感を伴う。そういうところを突いたのがアベの「一億総活躍社会」。しかし、誰もが大切な存在と考えることと誰もが社会で活躍する(べき)と考えることは全く異なる。誰しもが上記の企業のような存在になってしまうとどうなるのか?誰か一人が体調不良や家の事情で歯車の役割を果たせないとき、その瞬間、社会全体が崩壊することになる。

もうすぐ始まる春の甲子園、岩手県の不来方高校が21世紀枠で選出された。高知の中村高校も同じ。不来方高校の野球部は10人で、中村高校は16人だという。甲子園でベンチ入りできるのは18人らしいから、普通は強豪校の三年生でも「甲子園出場校なのに、甲子園に出られなかった」という悔しい思いをすることになる。それを考えれば恵まれているとも言える。

けれども中村高校はともかく(その中村高校も1977年に12人で出場したことがあり、その3年前にはあの池田高校が11人で出場している)、不来方高校はプレイ中に二人以上の負傷者を出したらどうなるのだろうか?このことを考えるだけでも、ベンチ入りの定員を満たしている高校でのグラウンドに出ない選手の存在の大きさがわかる。

このような消極的な意味での待機組だけではなく、積極的な意味での待機組も存在する。十年前の阪神である。「JFK」と称された、1イニングずつを分担して抑える投手リレー。相手チームは「6回までにリードを奪っておかなければ」というプレッシャーに襲われた。「JFK」の出番が来ない場合もあった。明らかに負けている場面もあったが、それまでに投げていた投手の調子があまりによかったか、打線が爆発して大量のリードを得ていたときである。このような「出番がないときの『JFK』」はいなくてもいい存在だったか。

話を一般社会に戻す「バックの存在はデカい」。そしてアベの政策にもう一言加える、「女性が輝く日本」。

活躍という言葉が好きな御仁らしい。だが、アベは男女共同参画社会に反対している。「共同」に反対して「輝く」を推し進める?単に夫唱婦随を社会規模にするに過ぎない。憲法24条の改訂も含めて「サザエさん世帯」の拡大、一般化に過ぎない。

小生は「サザエさん世帯」を否定はしない、望む人はそうすればいい。だが、国がそれを推し進めるというのは、他の様式の生き方(同性婚、母子家庭、単身世帯)の否定に他ならない。極めつけが稲田朋美の教育勅語賛同である。稲田朋美は刑法第二百条(尊属殺人罪)の復活も唱えている。父や母を殺した場合は死刑か無期懲役という条文である。親からの虐待など当たり前のように報道されている。当たり前であることを肯定しているわけではないが、そのような現実が存在するのである。女性であるならば、親から強姦されるケースもある。もちろん相手を殺すことは認められないが、このような状況でも相手を殺した場合の刑罰が「死刑か無期懲役」とはあんまりではないか。

参考:
刑法第二百条(現在は削除) 自己又ハ配偶者ノ直系尊属ヲ殺シタル者ハ死刑又ハ無期懲役ニ処ス


ならば反対は?親が子を殺した場合は?
単なる殺人罪である。死刑はおろか無期懲役になることも滅多にない。
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